2014年7月9日水曜日

抹 a.k.a. ナンブヒトシ インタビュー Vol.1

MEGA DUGEM vol.1にはサイドキックとして出演、vol.2にはサイドキックに加えてライブセットも披露してくれたラッパーの抹 a.k.a. ナンブヒトシ。そして2014年7月14日には彼をfeat.したDJ JET BARONの楽曲「Enaker's High feat. 抹 a.k.a. ナンブヒトシ」がリリースされる。

そんなラッパーの彼の音楽遍歴とそしてなぜFUNKOTに出会ったのかとお聞きしました。前半となる今回は、学生時代から、本気にラッパーになることを決意したところまで語っていただきました。



MEGA DUGEM vol.2より
‐出身はどちらですか?

東京都大田区です。

‐人生で最初に買ったCDって何ですか?

これが欲しい!って最初に自分で買ったのはRIP SLYMEの『FIVE』っていうメジャーデビュー盤ですね。

‐抹さんが何才の頃ですか?


13歳、中1ですね。

‐買った動機は何だったんですか?

それまでは音楽とか全然興味のない子だったんです。みんなが見てるからMステとか野球を見るという感じで。で、ある時Mステを見ていたら、モーニング娘のシャッフルユニットが始めてテレビに登場する回だったんです、黄色5とかあか組4とか。その回のトリがRIP SLYMEだったんです。「雑念エンタテインメント」という曲を歌ってたんですけど、それがめちゃくちゃかっこ良くて。音楽に初めて意識を持って触れたのがそのMステのパフォーマンスでしたね。それにやられて、彼らのアルバムを買ったんです。Mステの翌週ぐらいに、探したんですけど、地元のTSUTAYAに無かったんで渋谷のタワーレコードまで行って、これが意識的にCD屋に行った初めてでした。

RIP SLYME 『FIVE』
‐中学は共学?男子高でした?
共学です。

‐部活はされてました?
柔道部でした。一応初段持ってます。

‐おー凄いですね!なんで柔道部に入ろうと思ったんですか?
好きな子が柔道部だったからです。

‐青春ですね(笑)。でも珍しいですね女の子で柔道部って。
今思えばその子は柔道部の先輩が好きだったんだと思うんですよね(笑)。で、俺はそんなことは知らずに柔道部に入って、柔道着も買ったから辞められなくて、3年間やりきりました。その子は2年で辞めて、みんなは俺がその子を好きなのは知ってたんですよ。でもその子が辞めたからって、部活を辞められないじゃないですか。

‐思春期的に(笑)。
「ちげーよ、俺は柔道好きだし、もうトリコだよ」「初段も欲しいし、受験に有利になるし」って(笑)。

‐バレバレの嘘と思春期のやせ我慢ですね(笑)。
そうやってツッパってたんですけど、その子が辞めた瞬間、本当はもう辞めたかったですね~

‐それでも続けて初段までとったのは凄いですね。
中学の柔道部って3年間やってれば取らせてもらえますね。審査してくれる大会の自治体の人が覚えてくれるんで。

‐得意技はなんでした?
えーっと、大外刈りでした。体格を活かした大外刈りからの寝技でした。

‐合わせで1本ですね。柔道3年間やりながら、RIP SLYMEを聞いた以降、どんな音楽を聞いていたんですか?

NAS 『illmatic』
当時RIP SLYME同様にファンだったDragon Ashの降谷建志さんが、TMCオールスターズっていうのをやってたんですよ。そこにRIP SLYMEも所属していて、TSUTAYAでその関連アーティストが展開されていたんです。ラッパ我リヤとか、PENPALSとか。それでTMCオールスターズのRIP SLYMEがオススメするCDでJurassic5のセカンドアルバムの『Power in Numbers』とNASの『Illmatic』が紹介されてて、それも同時に買ったんですよ。よくわかんないけど、RIP SLYMEのオススメならカッコいいに決まってるだろうと。

‐NASって最初から読めました?
ナ「ス」、ナ「ズ」、どっちだろうっていうのはありましたね。2chを見てみたら、「通はナスってよぶ」ってあって、なんだよ、フワってしてんのかよって。

‐(笑)。
Jurassic 5とNASを買って、平行してUSの90年代HIP HOPを聞いてましたね。日本語ラップはTSUTAYAのジャパニーズHIPHOPのコーナーを「あ」から全部借りていったんです。

‐当時はTSUTAYAにもそこまでジャパニーズHIPHOPはなかったですもんね。
2002年ぐらいの頃ですから、まだメジャーからポンポン出てなくて。まだRHYMESTERが『噂の真相』を出したぐらいの頃なんでTSUTAYAにあった全部を追えたんですよ。で、最初にはまったのがOZROSAURUS、で次にキングギドラですね。僕の86年生まれ世代は、キングギドラがHEY!HEY!HEY!に出たのをみんな見てて、なんだこれはっていうのと、キングギドラの過激なメッセージ性っていうのにも触れてしまって。かたやUSのThe Notorious B.I.Gとか聞いてライナーで歌詞とかを見たら、「おいおいこの人ドラッグとか売ってたのかよ、日本でそんな人いないぞ」って。

‐中学生はビビりますよね。
それでちょっと調べるじゃないですか。和訳を読んでも知らない単語があって、「大麻」ってなんだ?うぁ、、これもドラッグだぞって。

‐ (笑)。
日本語と英語の2種類のラップを中学3年間は聞いてましたね。柔道をやりながら。

‐他のジャンルは聞かなかったですか?
ジャケットに惹かれてなんとなく借りたんですが、KEMURIってわかりますか?

‐日本のミクスチャーバンドの。
そうです、そうです。KEMURIは凄い好きでしたね。あとは、中学生の時にBLANKEY JET CITYのカバーバンドのヴォーカルをやったんですよね。

‐ほぅ。
これ、今思い出しましたね。しかも俺、やりたくなかったんですよ。ギター担当がクラスで友達が多い奴で。そいつとカラオケに行ったら「お前、歌うめぇじゃん。ちょっとこれ聞けよ」ってブランキーを渡されて、「今度の学校行事のミニコンサートでカバーやるから、覚えて」って言われて「赤いタンバリン」と「Saturday Night.」それともう一曲ぐらいやりましたね。

‐それがステージで歌った最初の経験だったんですか?
そういうことになりますね。

‐場所はどこでやったんですか?視聴覚室とか?
いや、講堂でしたね。しかもその行事が全校強制参加だったんで、自分の初ライブのお客さんが300人弱ですね。

‐いきなり多い!
MEGA DUGEMぐらいよりちょっと小さいぐらいの規模ですよね。

‐ライブはどうでした?
それが全然覚えてないんです。でもなんか悔しかった記憶はあります。歌詞を飛ばしたのか、怒られた記憶もあるし。ただ、そのおかげで、後輩の女の子に告白されたんですよ。

‐これは素敵な青春エピソードですね。
俺、今もなんですけど、ラッパーはモテルと言ってるし、思ってるんです。この気持ちの初期にはこのエピソードがあったからかもしれないですね。

‐夢がありますね、夢が。その頃はラップはやってなかったんですか?
ラップはカラオケで、RIP SLYMEの「One」を歌う程度でしたね。あとは卒業式でケツメイシを合唱したぐらいでした。なんでかっていうと、みんな聞かないから。カラオケでみんなが知らない曲をやると盛り下がるじゃないですか。

‐わかります、わかります。
だから、ラップが一番好きっていうことは隠してました。

‐「キングギドラってゴジラにでてくる怪獣でしょ?」とか言われたりとか。
「RIP SLYMEってメロディないじゃん」、いや、ないけどかっこいいだろ!って思ってて。中学生って何でも多数決で何でも決めるじゃないですか、その中で1でいるって100%勝ち目ないんですよ。なので負けるのは嫌って言うのと、好きなものをバカにされることにもの凄い抵抗があったんで隠してましたね。

‐いつから公言するようになりました?
高校に入った時ぐらいからですね。

‐HIP HOP友達ができたんですか?
クラスの不良でゴリゴリのB-Boyがいたんですよ。そいつのお陰で最初救われた気がしたんですけど、でも好みが違って結局仲良くならなかったんですよね。そこで僕が出会ったのがインターネットだったんですよ。自分のラップの友達はインターネットで爆発的に増えましたね。

‐そのB-Boyとは何が合わなかったんですか?
Xzibit

とにかく彼はXzibitが好きだったんですよ、でも俺はXzibitは特に好きじゃなくて。コワイHIP HOPには抵抗があったんです。一番最初RIP SLYMEから聴き始めて、Jurassic 5聴いて、NASのファースト聴いて、っていう流れでHIPHOPに触れていたんで、サグがドライブバイされて辛いとか、仲間が死んだとかっていうトピックだったり、ディールの話がメインにきてたり、あと筋肉を誇示するPVが嫌いだったんでXzibitは好きになれなくて。あとは早口のラップが好きだったんで、Xzibitのスタイルが自分には合わなかったのかもしれないですね。逆にEMINEMにはドはまりしました。高校2年の時に流行ってて、幕張メッセまでライブを見に行ってましたね、C席の一番後ろでみてました。EMINEMでてきたと思ったら全然違う人だったりして(笑)。

‐HIP HOPあるあるですね(笑)。
「ヨ」のキャップ
あとはそのEMINEM幕張メッセライブの物販でキャップ買って帰ったんですけど、数年後にそのキャップを久しぶりに発見して、見てみたら、EMINEMのEのマークだけがデザインされてたキャップなんですけど、エミネムのEのマークって左右反転なんですよね。どう見ても「ヨ」にしか見えなくて

‐(笑)。
俺はこれドヤ顔で被ってたのかーって、知らない人からすると単なる「ヨ」って書いてるだけですからね(笑)。これ被って町歩いてたのかって、今考えると薄ら寒くなりますね。

‐(笑)。ラップは高校の時から始めたんですか?
ネットに出会った高2の時にやりはじめましたね。

‐なぜ自分でやろうと思い始めたんですか?
友達が欲しかったからです。

‐ほー。
友達はクラスにはもちろんいたんですけど、その人達にはラップが好きであるということは隠してたんですよ。今から考えるとおかしいんですけど、当時はラップのことを隠しているこの友情はまやかしのものなんじゃないかって思ってて。そのラップの部分を打ち明けられる友達が欲しくてラップはじめましたね。もともとは、僕yahooが提供してたYahooチャットにドはまりしてて、そのチャット機能でSkypeみたいな通話機能で1人だけマイクを使って喋れる機能があって、それを使ってカラオケをする部屋に入り浸ってたんです。同時期にMCバトル文化に出会って、これはかっこいいし、トラックを作れなかった俺にもできると思って、yahooチャットでフリースタイル、MCバトルの真似事を始めたんですよ。その中では自分はできるほうだったこともあり、ラップができる人達の間でつながりができて。

‐「お、お前できるんじゃん」って。
そうですね。それで友達ができたんです。なのでラップをやると友達ができるだと思ってもっとやるようになって。そこで今は無くなっちゃった「歌詞→HIPHOP系」というサイトがあって。日本語ラップの歌詞をネットで検索したことのあるやつは必ず通ったことがあるサイトなんですが、そこに音源も投稿できる掲示板があって、そこで録り方を聞いて投稿したのが最初でしたね。

‐ちなみの最初の曲のタイトルは覚えてますか?
えーっと言いたくないです(笑)。

‐(笑)。では内容は?
エモいですね。大人になりたくないみたいな。ベランダでなんで俺学校行ったりしなきゃいけないんだって思う。いや、大人になりたくないじゃなくて、早く大人になりたいですね。誰かに命令されないで働いたり学校行ったりしたい、みたいな。

‐高校生っぽくていいですね。
これを読んだ友達は、インタヴューのURLと一緒にその曲名をツイートするんだろうなって思います(笑)。

‐期待してます(笑)。
話がちょっと前後するんですが、そのyahooチャットで、アシパン(*高野政所が店長の渋谷のクラブ acid panda cafe)常連で政所さんと一緒にpodcastやってる浮き輪さんともyahooチャットで知り合ってたんです。当時あの人は国内有数の日本語ラップに詳しい人で、「浮き輪の日本語ラップ部屋」っていう浮き輪さんのセレクトした日本語ラップを流しながらチャットをする部屋があって、そこには今はMCバトルで有名なノンキさんとかもいらっしゃってて、そのお二人とはyahooチャットで知り合ってたというのがありますね。

‐ラップにまみれた高校生活だったと思いますが、途中で中退されたんですよね。
そうです、高校2年の時に勉強もできなさ過ぎた上に高校に行かなさすぎて。

‐ラップが楽しすぎてですか?
それもあり、ドンドン、学校がつまらなさすぎるようになって。毎日7時半の山手線に乗って、寝るだけ寝て起きた駅で降りるっていうことをやってたんです。

‐なぜですか?(笑)。
ほんと暇だったんだと思います。その時は、1、2、3学期の間でこの方法で山手線の全部の駅を制覇したいなって思ってました。

‐偶然性の謎のゲームをクリアできたんですか?
確か俺できたと思うんですよ。路線図でいう右上の駅って降りる人が凄い少なくて、音もしないから起きれないんですよ。そこで難航したんですけどクリアしたと思います。

‐(笑)。
あとは原宿で降りて修学旅行で来た学生の振りをするっていうのも一時期やってました。

‐1人で?
1人でですね。はぐれちゃったっていう設定で、修学旅行生に「どっから来たの?」って声かけて、「俺はぐれちゃって、チェックポイントとか教えてもらっていい?地図みせてよ」って。

‐何のために(笑)。
わからない!(笑)。暇すぎたんだと思いますね。

‐そんなことをしてて中退になるわけですが。
ただ親がどうしても高校は卒業しろって言ってきて、今思えばホント感謝なんですが、寮にいれられたんですね。

‐寮?一回中退したあとにですか?
強制退校にすると他の高校に入れなくなるので辞めた高校の恩情裁きで自主退学の形をとらせてもらえたんで、もう一回受験して3年生だけ別の高校に行ったんです。千葉県にある全寮性の学校で、そこもハチャメチャだったんですよ。小中高一貫校だったんですが、その高校に3年目だけ編入するって相当難易度高いんですよ。

‐それは大変ですね。

周りは11年分の関係性の蓄積があるわけですよ。そんなところに1年だけ高校卒業のために来たヤツなんて打ち解けないじゃないですか。でも打ち解けられたんです。

‐へー、なんでですか?
完璧に外様であるということを3日ぐらいで理解して、逆にしがらみがないから何でも話してよ、っていう位置取りをしました。

‐なるほどなるほど。寮生活はどうでした?
まぁ性の関係がただれてて、ただれてて(笑)。

‐あ、共学なんですね。
そうなんです。寮自体は女子寮男子寮と分かれてるんですけど、物凄い狭い世界じゃないですか。

‐しかも小学校から同じですもんね。
あいつの元彼はあいつの元彼で、元カノの元彼でとか、血が濃い血が濃い(笑)。

‐音楽仲間はできました?
HIP HOPはその場にはあったんです。ブレイクダンスをやってる人が結構いて。高校生ってダンスかギターかをやりはじまる謎の期間とかがあると思うんですけど、その高校はダンスが強くて。で、そこでオールドスクールのHIP HOPに出会うんです。

‐今まで聞いていた90年代、00年代とは別の時代ですね。
2 Live Crew
その中でもラップとしてメッセージやリリシズムを伝えるものや日本語ラップをメインで聞いてたんですけど、その高校で「お前ラップやってんだったら、こういうのわかる?」って2 Live Crew聞かされたんですけど全然知らなくて。他はMCハマーとか。

‐なるほど。
その同級生ブレイクダンサーの影響もあって未だにオールドスクールは好きですね。

‐高校の時にはラップでライブとかやってました?
クラブでやってました。18才の時に初めて、渋谷の小箱で初めてのライブをやりました。

‐きっかけはなんだったんですか?
yahooチャットで知り合ったやつに誘われたんです、枠あるけど、どう?って。それでライブするために曲も書いて出ましたね。あとその頃MCバトルにも初めて出ました、クソみたいな、友達人数合戦的なイベントでしたけど。

‐小グループなイベントだったんですね。
MCバトルやってるっていう情報だけを聞いて行ったら出演者とかお客さんが全員優勝したヤツの友達で。誰も他のバトルを聞いてなくて、それがすごく嫌だったし、そもそもそういう場に行ってしまったことが凄い悔しくて。今度はSSWSという大会にでることしたんです。METEORさんとかKEN THE 390さんとか、降神さん、小林大吾さんが出場していた大会で、今ではタマフルの構成作家としても有名な古川耕さんが審査員をされていた大会で。

‐新宿でやっていたんでしたっけ?
そうですね新宿MARZでやっていたやつです。ポエトリー・リーディングでもラップでも言葉を使っていたら何でもOKという大会で、僕は17歳ぐらいの時に初めて出たんです。ここに出て箸にも棒にもかからなかったらラップ向いてないからやめようと思ってSSWSに行ったんです。そしたら優勝しちゃって。
抹@SSWS

‐おー、初出場で!SSWSってトーナメント形式でしたよね?
8~16人の言葉を使う人がエントリーするトーナメント形式のバトルです。1人5分間与えられて、その時間内なら言葉を使うこと何でもやってもいいというルール。2人終わったら審査員が良かった方に旗をあげるっていう。審査員には古川さん以外にもSONY MUSIC SD事業部の部長の方とか、Shing02とかTHA BLUE HERBの英訳をやっている浅沼優子さんとか。そうそうたる顔ぶれに審査されて、なおかつ初出場で優勝しちゃって、調子に乗っちゃったんでしょうね、向いてるって(笑)。

‐「これ、俺、いけるで!」(笑)。

と思いまして(笑)、続ける決意を得ました。高校の後は大学受験のことなんて考えてなくて、働こうと思ってたんですけど、こうなったら音楽の友達がいるようなところに行こうと思って、厚木にある大学の芸術学部に行ったんです。そこも辞めちゃったんですけど。




ラップでいける!と思い大学を辞めた抹はどうなるのか?後半のVol.2に続く。

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