2014年3月15日土曜日

KAZUHIRO ABO インタビューVol.2

DJがしたい!でもお金がないABO氏の妄想の話、地元青森での現場DJの話、そして東京へ状況!インタビューVol.2です!

Vol.1はこちら



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MDとかカセットしかない時代ですよね。


ABO そこでなんとかしないと、と思って。これからする話は妄想の可能性があるという前置きで話しますが・・・HIP HOPの人達ってハスリングという知恵を使ってお金を稼ぐことがあるじゃないですか。だから自分もどうにかハスリンしなきゃと思っていた時、裏山に大量の裏ビデオが捨ててありまして、その裏ビデオを、2世帯住宅だったうちの1階と2階のビデオデッキを家族がいない間につないで、ダビングしまくって、それをいろんなネットワークを使って○○しまくってました。

(笑)。


ABO それで結構あがりを得て。それをしばらくやってて、高校生になったぐらいにはDJをやってお手伝い代費とかDJフィーをチョイチョイもらえるようになりまして。

現場で既にプロとして回していたんですね。
KAZUHIRO ABO


ABO そうですね、16,7才ぐらいの時からですかね。

ちなみに一番最初に現場でDJした時のことって覚えていますか?


ABO 大先輩の方が「ちょっとなか卯で飯食ってくるから、まわしといて」って言われて。

かなりラフなデビューですね(笑)。


ABO その時のミキサーがUREI 1620っていうハウスのレジェンダリーミキサーで、EQとかクロスフェーダーもなくて縦フェーダーがロータリーフェーダーって言われるノブなんです。音量の大小だけでやらなくちゃいけない、でも音がよくて、昔ながらのハウスの人は必ず使う機材なんです。でもその時僕はHIP HOPのレコードしか持ってなくて、

(笑)。


ABO そんな状況で師匠のレコードを借りながらガチガチになってまわしてて、早く飯くってくんねぇかなぁって。

早く戻ってこいと(笑)。


ABO でもその時の地元のクラブの経験って今でも凄い役にたってます。深夜2時とか3時になってくると歓楽街からキャバクラで働いてるおねぇちゃんとかが上がって来て「トランスかけてー」って。

90年代後半ですかね。


ABO 99年、2000年ぐらいですね。でもそれを普通にかけても、面白くないから、ミックスしてかけてあげるんですよ。例えば前にかかっていたのがマイケル・ジャクソンだったとしても流れ作って正攻法でトランスまで持っていくのだとダレちゃうなと。時間をかけて綺麗な流れを作っても彼女らは待っててくれないんです。それでも、DJだから瞬時にキーが合うするトランスを割り出して小節数とかもその場でこれくらいだな!ってあたり付けてロングミックスして繋いであげると「キャー!」って盛り上がって、たまに小遣いをくれたりするんですよ。

若い子がやってると可愛いですしね。


ABO 信じてもらえないかもですが、僕も当時はもっとシュッとしてて。49kgぐらいしかなかったんで。

それはカワイー、カワイー、になりますね(笑)。


ABO そういうこともあって、地元の先輩には可愛がってもらえて。それと僕は学校をドロップアウトしたんで、学校で学ぶべきこととか、上下関係とか社会性とかっていうものをクラブから学んだんです。学校に行ってたとしても、たぶんノレないんで学べなかったと思うんです。アンダーグラウンドのクラブがあったお陰で救われて、今に至る部分があります。あ、ちなみに上下関係っていうのは、楯突くことまで含めてで。そんな感じでDJ活動をしていて、トラックを作り始めたりとかして、トラックを作った時に周りに仲間とか全然いないから、インターネットがようやく繋がりはじめて時だったんでネットで曲を発表してました。ちょうどシンセイサイザーを買ったこともあって、作るのはテクノが多くなってきて、青森のテクノ高校生とも言われたりしてましたね(笑)。現場では黒いものをかけつつ、一方ネットの上では青森のテクノ高校生みないな乖離した生活をしていた時に、そのジャンルの間をつなぐようにサンプリングでテクノをやってた人がいて、その人が政所さんなんです。

へー。


ABO 僕が中学校2年生ぐらいの時に、お母さんから「コンピューターで音楽を作る人がNHKBSにでるみたいよ~」と言われて見てみたら「デジタル天国」という宅録にフォーカスした特番だったんですが、そこでレオパルドンが紹介されてて「これだよ!」と思ったんです。

「これが俺がやりたいやつだ!」と。
韓国でライブをする高野政所(23歳)

ABO 夢のような音楽がそこにはありました。その見た日の夜に、レオパルドンで検索して、その頃はLPD高野っていう名前だったんですが、そこでアドレスを見つけて政所さんに4000字を超える長文のメールを送ったんです。

そのメールに返信はありました?


ABO ありました。「青森じゃ話あう人いないでしょ」って割とそっけない感じで(笑)

意外とそんなもんですよね(笑)。


ABO しかもネットのフィルターを通すと伝わる熱も伝わらないですよね(笑)。こっちはもう超興奮してキーボードを打ってて(笑)。その中でナードコアをやってるっていう人達と接して

ネットができると距離的な不都合はなくなりますもんね。


ABO そのナードコアのベテラン組の人達は今でも青森のテクノ高校生っていたよねって分かる感じかもしれません。

ちなみに曲を作っていたとのことですが発売とかしていたんですか?


ABO アルバムを作って17歳の時に自分でCDRに焼いて地元のレコード屋さんに流通させてもらってたりしてたんですけど、僕が海外盤、US盤とかUK盤とかで収録内容が微妙に違うのに憧れてて、自分のアルバムもそういう感じで売りたいな~と漠然と思ってたんです。例によってこれからする話は創作の可能性があるという前置きで話しますが・・・ちょうどその頃、僕が裏ビデオをしてたことが地元の恐いお兄さんたちにバレまして。

みかじめ料を取る人たちですね(笑)。


ABO で、それである時、品物を届けに行ったつもりだったんですが、それが囮捜査でして。

警察じゃなくて、恐い人達の囮捜査(笑)。


ABO それでそのおにいさん達に捕まってしまいまして、「これは八戸港に沈められる」とマジで思って、人生終わったと思ってました。「なんでこんなことしたんだ!」と言われた時に、「僕、実は音楽をやっててDJやってて」

これは言うしかないと(笑)。


ABO 必死に言ったら「だからお前が売ってるブートAVには変な音楽が入ってるのか」と言われたんです。

音楽が入ってるとは?


ABO より盛り上がるように、自分なりにShiroの「Can We TalkとかThe Notorious B.I.G.の「BIG POPPA」とか、俺が考えるエロい音楽っていうのを、ビデオの音声トラックにMIXしてたんですよ。

(爆笑)。


ABO 勝手にBGMをつけてたんですよ。もしこの記事見てる人で、画質が悪くて、妙にメロウなR&Bとかが流れる裏ビデオ持ってる人いたら、それ僕のかもです。・・・実在するかわかりませんが。

(笑)。それはプレイの途中ですか、それとも始まる前後?


ABO プレイの時とかにも入れてたりしましたね。

(笑)。


ABO 発信する場所がないからあらゆる場所に自分のタグを残していくということをやってて。僕は絵が描けないけどグラフィティとかタギング的に。こういう形で自分自身をメディア化することもできるぜって意識ですね。超ピストンしているところにジャーマンテクノとかを入れたり。

いい話ですね(笑)。


ABO それを怖いお兄さんに話していたら「そうなのか、お前今後こんなことしちゃダメだからな。お前CD作ってんのか?」と聞かれたんです。いわゆる裏ビデオの逆輸入ものってあるじゃないですか。こっちのAVをアメリカで売るために輸出して、向こうはモザイクがないから、それをまた日本に輸入してモザイクなしで売るっていう。ってことは行って戻る流通があるんですよ。

あー確かにそうですね。


ABO その人達はカリフォルニアを拠点に○○○というTSUTAYAみたいなお店があってそこにCDAV、あと1週遅れの連ドラとかの録画を流してたんですが、そのカタログがあって「そこにお前のCD載せてやるよ。納品書書いて在庫送れよ!」と言われ「お前頑張ってる若いやつだから応援してやるよ!」って逆に助けてもらったんです。ある店舗のチャートだと浜崎あゆみよりも自分のCDが売れてた時があって、その人達も「JAPANESE TECHNO SAMURAI KIDS」みたいなPOPも作ってくれて、もの珍しくて買ってくれた人がいたみたいで。お金もわりと振り込まれてて。

(笑)そこはちゃんとしてるんですね。


ABO そういう風な高校生活だったんで、甘い考えだけどそんな感じで生きていけるかなと思ってたし勉強も苦手だったんでそこまで大学も行く気がなかったんですけど、両親が教師っていうこともあり大学は受験して欲しいと、なんなら東京藝大が楽器とか楽譜がなくても入れるところがあるらしいぞっていうことで、受験して入ったんです。

ストレートで入ったんですか?


ABO ストレートですね。

ちなみに学科は?


ABO 音楽環境創造科っていう新設2年目の学科でした。入試の時には総合芸術表現としてのクラブという場ってのをプレゼンして入ったんですけど、そんなこんなで東京にきました。

その時が初めての東京でした?



ABO その前に行ったことはありまして、高校の時に親には大学見学に行くっていって何度か上京してました。実際は大学は横目でみるぐらいで、宇田川町にレコードを買いにいってました。ちなみに中学高校生の時にネットで見つけて交流が続いているのがsabacan recordsをやってるぐちょんとか、ディスク百合おんとかも実はそうで、16次元レコードの丼ちゃんとか、いわゆネットレーベル黎明期の猛者みたいな人が中高時代、ネットを介して一緒に音楽をやってた仲間だったりします。結構ぼくが繋げた人とかもいたりして。

自分は青森にいるから逆に連絡を密にとりたくなりますもんね。


ABO 彼らは関東にいるんだけど、僕が上京するまでほとんどオフラインで会ったこともなかったりもして。

旅行ではなく、住むことになって東京ってどうでした?


ABO 青森とはもちろん違ったんですが、僕は今振り返ると結構スパルタでDJを叩きこまれて、ミスると先輩から帰りになか卯でミスった回数だけつまようじを頭にされるんですよ。

オールドスクールな感じですね。


ABO いっぱいミスるとヘルレイザーみたいになって(笑)。後に判明したのですが、つまようじは昔のディスコDJ縦社会の定番アイテムだったとかなかったとか。。うちだけじゃなかった・・・。なのでそうならないように必死に上手くなるために練習していたし、地元の同世代のDJはそれこそDJ1,2君だったりするんで、当時の僕からすると東京の同世代のDJはそれほどでもないなと思いました。ちなみにそういう縦社会、めっちゃタメになりましたが個人的には嫌です!だから今は僕、こんな感じで(笑)。
  
東京だと現場でもあまりにも選択肢もあって、先輩に怒られなくても回せるクラブもありますもんね。


DJフクタケ
ABO それに何処行っても同じだなーって思ってたんですが、唯一ここは違うぞって思ったのは、オルガンバーで、そこは上京して最初期に行ったんですが、なんか他のクラブと違うなぁと思っててそこで回してたのがDJフクタケさんだったんです。

へー。


ABO ヤバイですよね、神の導きですよ。

年代でいうといつ頃ですか?


ABO 2003年ぐらいですね。ブートレグサイエンスっていう渋谷直角さんが主催をされていたイベント、そこにたまたま行って、フクタケさんを目当てっていうのじゃなかったんですけど、フクタケさんと吉田哲人さんのDJ、あとはゴリラアディクトのゴリラさんのライブとか。もうこれはヤバイと痺れて、あとは憧れのレオパルドンの人達にも会えそうだなと。

2003年ぐらいだったらまだレオパルドンは精力的に活動してますもんね。


ABO そしたら「タンタンMeN'sナイト」っていうの高円寺の円盤でBUBBLE-Bさんと政所さんでやるからって聞いて、それに通ったりしてました。その一方で、僕の地元のDJのお師匠様はニューヨークディープハウスのDJなんですよ。こてこてのニューヨークマナー、いわゆるパラダイス・ガラージマナーの人で、その人についてたんですが、僕はハウスの中でもNY系だけじゃなくプログレッシヴとか音楽も好きで。Coqdoレコードっていうお店が宇田川町にあって、そこで買いものをしてたら、いつも変なレコードを入荷するとかならず買う人としてお店に認知されて、その人がミヤザキさんという女性でして、その人はJoe Claussellっていうニューヨークハウスの大物DJの日本のマネージャーをしているような人なんです。
 
DJ YUMMY
それで、その人と親交を深めていくんです。そのレコード屋さんの中で今でも一緒にやってる仲間のDJ YUMMYとパーティを催したりしました。そんなことやってたらJoe Claussellが来日する度に物販とかを任されるようになって、NY系ハウスのメインストリームで頑張ってる若手として英語も喋れないのにJoeのお手伝いとかを20から22,3才ぐらいまでやってました。21歳の時にギャル服のファッションショーの音楽を作る仕事が舞い込んできて、3ブランド分やったんですが結構もらえて、そのお金を下手に散財するのもなんなんで、よしここは一度本場のニューヨークに行こうとそのお金で航空券を買って、ティミーレジスフォードっていうハウスの超重要な人がいるんですが、その人のと一緒にシェルターという名門クラブでDJをしていたDJ U-ichirowさんっていう人の家に滞在して、ニューヨークハウスライフをちょっとのあいだ送って、そこでルイ・ヴェガのエンジニアをやってるヤスさんという方と会ったり、NICKY SIANOっていうFrankie Knucklesとか、Larry Levanの先輩DJの誕生日パーティーに潜り込んだりとかっていう生活をして帰ってきたら、若手の中でニューヨークマナーでディープハウスのDJをアボ君上手だよねっていう評価を受けて、、でもだんだんそのマナーの上でDJするのが嫌になってきて、元からあるマナーの上でやるっていうのが絶対に嫌で、そこのマナーを上に異物をいれたくて、

AVの上に曲を勝手にいれたような


ABO なので、そういうような予備知識をもたない人に向けてDJをしたいなというので始めたのが幼稚園DJなんです。今は当初の目的は全然違う目的と意義を見いだしてやっておりますが。そのうちにageHaでレギュラーを持つことになって。今大箱って若手DJだと、一つのフロアにDJ6人も7人もつっこんで、一人頭1時間未満のプレイ時間で、ギャラはなくてノルマはあってという状況もあると思うんですが、僕らは20代前半だったけどちゃんとギャラを頂いて、YUMMYと僕とDJ1,23人でやってたんですが、一人2時間、2時間半とか回す。でもお店の人はちゃんとしっかり聞いてて、いわゆるインドネシアのDJと同じで、それよりもう少し自己表現が入りこむ余地もあるんですが、結構評価して頂いて1年半ぐらいDJ EMMAさんのUltraMusicというパーティの時なんかにIslandBarで「Cloudland」っていうパーティーだったんですが、YUMMYと僕でやってるパーティーがアサインされるようになって。その頃ちょうどyellowが閉店しちゃって、elevenが出来る間の空白の期間で、yellow難民みたいな人が良いハウスDJを求めて彷徨ってる時期で。そういう耳の肥えた人達を相手に若造がロングでDJして、この時期にDJをちゃんと仕事にするっていうことの意識に関しては物凄い高くなったというか、東京での仕事としてのDJのキャリアを考えるとあそこらへんがターニングポイントかなぁと思っています。

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そんなABO氏がFUNKOTに出会う!Vol.3に続きます!

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